大和桜

コラム

酒に訊け。

006

伊丹十三とジン・バック。

高松の夜は『汁の店 おふくろ』と決まっていて、そこで焼酎のお湯割りを飲みながらつまみを2~3品。それから鰤のたたきか鯛のフライ、最後に大ぶりのお椀に入った味噌汁を飲む。何を選ぶかはその時の気分だが、白味噌仕立てが珍しいので豚汁を頼むことが多い。ふだんはハシゴをしないのに、旅先だとすぐにホテルに戻る気がしない。何しろ『おふくろ』は夕方5時オープンだから、満腹で店を出てもまだ6時半なのである。
 次の店も、そこから歩いて百歩くらいの距離にある『珈琲と本と音楽 半空』という店と決まっている。最初はたしかにコーヒーを飲みに寄っていた。ネルドリップで淹れたコーヒーの濃さが、食後にちょうど良かったのだ。店名にあるとおり、カウンターの後ろは本棚になっていて、ほとんどが買うこともできる古本だ。本とコーヒーの組み合わせならば、いまやそんなに珍しくはない。ところが2回目だったか3回目だったかに行った時に、初めてじっくりとメニューを眺めてみたら、全体で10ページくらいのメニューの最後のページに開高健の「黄昏に乾杯」という短いエッセイが引用されていたのに気づいた。素晴らしい文章だったし、これを選んでメニューに載せるほど、この店の若いマスターは本読みなのだと、ようやく理解した。
 それでまたあらためてメニューを眺めた。酒が飲みたくなったのだ。そこには「モヒート」と「ヘミングウェイが愛したモヒート」の2種類があった。違いを尋ねるよりも、ヘミングウェイという名前を聞けば、やはりそちらを選んでしまう。ヘミングウェイだけでなく、村上春樹やチャールズ・ブコウスキーや伊丹十三の愛したナントカというのもあったが、もともとモヒートが好きだから、その日からはそればかり頼むようになった。
 ある夜、またメニューを眺めていたら、最後のページが開高健ではなく、曽我部恵一の「コーヒーと恋愛」というエッセイに変わっていた。どうして変わったのかとマスターに尋ねたら、変えたのではなく3バージョンあるという返事だった。引用文が違っていたのが、いつも注文が同じじゃつまらないねと言われているように感じ、「伊丹十三の愛したジン・バック」を選んでみる。ジン・バックとともに、マスターが「ここに飲み方が書いてあります」と、『ヨーロッパ退屈日記』を差し出してきた。何度も読んでいる本のはずなのに、指差された文章に覚えはない。そこにはコーリン・グラスに半分に切ったレモンを入れ、好みの量のジンをジンジャーエールで割り、マドラーでレモンをぎゅうぎゅう押して飲むと書いてあった。でも、差し出されたジン・バックはコーリン・グラスを使っていない。マスターはすぐに、こちらが考えていることを察したのか、今度は空っぽのコーリン・グラスを持ってきた。そして、どうしてこのグラスを使わないのかを滔々と説明してくれた。
 いつかマスターに、店名を変えたほうがいいと伝えたい。ここは『珈琲と本と音楽 半空』ではなく、『珈琲と本と音楽と酒 半空』とすべきだろう。

(2018年2月27日)

岡本 仁

岡本 仁

オカモトヒトシ/編集者。1954年、北海道生まれ。マガジンハウスにて『ブルータス』『リラックス』『クウネル』などの雑誌編集に携わった後、2009年にランドスケーププロダクツへ。雑誌『暮しの手帖』や『& Premium』にてエッセイ連載中。

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