大和桜

コラム

酒に訊け。

018

喫茶店のハイボール。

 浅草にある喫茶店〈アンヂェラス〉が3月17日18時をもって閉店するのだそうだ。理由は建物老朽化のためとホームページに書かれているが、その後のことには触れていない。閉店のニュースが伝わってからは、店の前に開店前から行列ができているという。この店に限らず、閉店のニュースが流れると愛着のある人々が別れを惜しむために押しかけるという現象は理解できる。でも、それが度を超えて、まるでスタンプラリーみたいに見えるようになったのはいつ頃からだろう。
 ぼくにアンヂェラスを教えてくれたのはかまやつひろしさん(ムッシュかまやつ)だ。1990年代の半ばに、ムッシュと東京の街をぶらぶらしながらその時々にしてくれた話を書き留めるという連載を持っていた。浅草の〈並木藪蕎麦〉で日本酒を飲みながら二人で話した後、店を出たらムッシュがいつもの柔らかい声音で「アンヂェラスでパフェでも食べませんか?」と言った。名前は聞いたことがあったが、浅草にあることは知らなかった。それ以上にムッシュの口からパフェという言葉が飛び出したことにびっくりした。古い木造の店舗はとても味わいがあり、内装も素晴らしかったから、いっぺんで好きになった。たしか二人ともチョコレートパフェを頼んだはずだ。
 アンヂェラスのメニューにハイボールがあることを教えてくれたのは、文筆家の甲斐みのりさんだ。彼女のイベントにゲストで呼ばれた時の打ち上げで池袋の居酒屋に行った時のこと。そこで彼女はハイボールを頼んだ。ハイボールが好きなのかと尋ねたら、彼女は「はい。浅草のアンヂェラスのハイボールがいちばん好きです」と答えた。その後、浅草に用事があった際にアンヂェラスでハイボールを頼んでみた。喫茶店という場所のせいなのか、それともグラスやマドラーのかわりにさされた細いストローの色のせいなのか、出てきたハイボールにはアルコール飲料とは違う佇まいがあった。営業時間内ならばいつでも飲めることに気づき、それからは浅草で夕食の約束ができると、ぼくはアンヂェラスでアペリティフを楽しむようになった。
 もちろん愛着はあるけれど、閉店前にもう一度だけアンヂェラスに行きたいとは思わない。自分の胸にはいろいろなことが刻まれているのだから、それをわざわざ再確認することは何もない。いや、ムッシュと一緒だったら行ってもいいかもしれないとは思う。そもそもムッシュはアンヂェラスにハイボールがあることを知っていただろうか。それを確かめたくても、会うことはもう叶わないのだが。
(2019年2月24日)
岡本 仁

岡本 仁

オカモトヒトシ/編集者。1954年、北海道生まれ。マガジンハウスにて『ブルータス』『リラックス』『クウネル』などの雑誌編集に携わった後、2009年にランドスケーププロダクツへ。雑誌『暮しの手帖』や『& Premium』にてエッセイ連載中。

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