大和桜

コラム

酒に訊け。

013

ホテルのバー。

ホテルのバーが好きだ。とはいっても、どこかで食事をしてきた後にナイトキャップとして強い酒を1杯というよりは、これから晩ごはんを食べに出かけるタイミングで、その前にアペリティフを何か飲むという使い方のほうを好む。
 このところよく泊まる札幌のホテルのダイニングルームに、ベルナール・ビュッフェの巨大な絵が飾られている。ビュッフェの絵の前でビュッフェ形式の朝食という、ダジャレみたいなことが実際に起きているわけだが、ビュッフェの絵はダイニングルーム以外にも2枚あるらしかった。2階に上がる階段の踊り場に掛けられた絵は、ロビーからも一部が見えているのだが、もう1枚はなかなか見つけられず調べてみたら、どうやらメインバーにあるようだ。バーならばすぐに観ることができるだろうと高を括っていた。ところが食前に飲むという時間的余裕がないことが続いた。夕食を済ませてホテルに戻った時に、1杯だけ飲むのが現実的である。にもかかわらず好きな店の多い札幌なので、美味しい食事に後押しされて、毎回、考えている以上に酒が進む。だから、タクシーでホテルに戻る頃にはすっかり出来上がっていて、一刻も早く部屋のベッドにダイヴすること以外の選択肢が消えてしまう。そんな訳で、3枚目のビュッフェの絵はずうっとお預けのままなのだ。
 今宵こそは何があってもメインバーに寄ると決めていた。案の定、とても美味しい、そして珍しい北海道のワインをいろいろ飲ませてもらってすっかり上機嫌になり、ホテルに戻った時には眠くて仕方がなくなっている。メインバーは地下だ。エレベーターに乗り込み、迷ったけれど初志貫徹、「B1」のボタンを押した。バーを探す。ドアは開いていて、カウンターと酒瓶が見えた。瞼はどんどん重くなっていくのだが、ビュッフェの絵を観なければならない。ドアに近づいていく途中でふと横を向くと、壁にデッサンが飾られていた。ダイニングの大きな絵とモチーフが同じ。間違いなくビュッフェのものだった。バーの中に入らなくても、3枚目のビュッフェは観ることができたのだ。あんなに固い決意をしなくても、ただ地下に降りれば事は済んだのである。拍子抜けしてしまいすごすごと部屋に戻った。たぶん明日の朝、ビュッフェのデッサンがどんなだったかは、絶対に憶えていないだろう。
(2018年9月29日)

岡本 仁

岡本 仁

オカモトヒトシ/編集者。1954年、北海道生まれ。マガジンハウスにて『ブルータス』『リラックス』『クウネル』などの雑誌編集に携わった後、2009年にランドスケーププロダクツへ。雑誌『暮しの手帖』や『& Premium』にてエッセイ連載中。

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