大和桜

コラム

酒に訊け。

008

日本酒の名前。

 久しぶりに築地の『魚竹』に行った。ぼくは「まずは生」に興味はないし、この店は「生」を置いていないから、ちょっとした天国だと思っている。酒はいつも〈銀嶺立山〉だ。たしか日本酒は2種類しか置いていなくて、もうひとつは〈〆張鶴〉だったと思う。いや、もしかしたら〈八海山〉もあったかもしれない。ぼくが頼むのは立山なので、他の酒の名前はきちんと憶えていないが、とにかく2種類か3種類だけである。もう1軒、大好きな店である湯島の『シンスケ』にいたっては〈両関〉しか扱っていない。甘口と辛口、それを常温かぬる燗か熱燗か、あとは冷酒にするか、なんとも潔い。
 どうしてこんな話をし出したかと言うと、先日、はじめて〈雪の茅舎〉を飲んだからである。
 友人が連れていってくれた駒込の酒亭で、はじめて〈新政〉を飲んで以来、乳酸の味わいのある日本酒が好きになった。そのすぐ後に岡山の料理屋でも〈新政〉を飲み、女将が「そういう味がお好きだったら、こちらもいいですよ」と〈山本〉を薦めてくれた。どちらも秋田の酒だったから、それからは秋田の酒を選ぶことが多くなった。
 とはいえ、日本酒がずらりと並んでいる店やメニューを眺めていていちばん困るのは、読み方がわからない時だ。よく行く『しゃけスタンド』という店にも、壁にホワイトボードが下げてあって、そこにその日に飲める日本酒の名前が書いてある。気になるものがたくさんあっても読み方がわからないと注文が出来ないので、読める酒を頼むことになる。若い店主にホワイトボードを指差して「コレ!」とか「コレはなんて読むの?」と訊くのも、なんだか気恥ずかしい。そんなだから、ずうっと気になっていた〈雪の茅舎〉も、読み方がわからなくて頼んだことがなかったのだ。
 先日、目白にある秋田料理の店に連れていってもらった。酒の名前を書いた下げ札だったか黒板だったかに〈雪の茅舎〉もある。飲んでみたくて仕方ないのだが、しつこいけれど読み方がわからない。しばらく飲んでいるうちに連れが「じゃあ、次は〈ゆきのぼうしゃ〉をください」と注文した。「雪」がつく名前の酒は、その店のメニューには〈雪の茅舎〉しかない。すかさず注文した。「ぼくも〈ゆきのぼうしゃ〉をお願いします」。そいつを抱きしめたい気分だった。
 他にそんな人が居るかどうかは知らない。日本酒が好きなら読めて当然なのだろうし、そういう前提で店はレアな日本酒を揃えるのだろう。でも、もしよかったら、こんな素人のために「ふりがな」をふってもらえないだろうか。

(2018年4月30日)

岡本 仁

岡本 仁

オカモトヒトシ/編集者。1954年、北海道生まれ。マガジンハウスにて『ブルータス』『リラックス』『クウネル』などの雑誌編集に携わった後、2009年にランドスケーププロダクツへ。雑誌『暮しの手帖』や『& Premium』にてエッセイ連載中。

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