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髭の男。
目当ての店が開くまでに、まだ1時間はある。じゃあ自家焙煎の美味いコーヒー屋さんがあるから寄っていきましょうと、ジャッドくんが『マリアッチ』という店に案内してくれた。メキシコふうの建物の前にクルマを停めて中に入る。いま開けたばかりなのだろうか、店内にはまだ半分眠っているような空気が流れていた。壁際の席に着いてすぐ、斜め上に飾られた額の絵が気にかかりはじめた。コーヒーカップを持つ長髪に髭をたくわえた外国人。カステラの掛け紙にも似た、この南蛮趣味の版画には見覚えがある。かなり崩したローマ字のサインは、ギハチロウオクヤマと読めた。
ブラック・ニッカのラベルをデザインしたのは誰か。調べてみると、大高重治ではなく、奥山儀八郎という版画家に行き当たった。ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝と親交が深く、初期のポスターやラベルをデザインした人物だそうだ。実際にニッカの余市工場を描いた木版画も見つかる。ブラック・ニッカのラベルをデザインしたとまでは書かれていないけれど、ニッカと関わりのあるデザイナーとして名前が挙がっているのは、奥山儀八郎ただひとりだった。奥山儀八郎は版画家であると同時に、その筋では有名なコーヒー研究家でもあったらしい。コーヒーに関する著書がいくつかあり、その中の一冊の表紙に、いま自分が目にしているコーヒーカップを持つオランダ人の版画が使われていたはずである。だから見覚えがあったのだ。
壁の絵に目を奪われたままひと言も発しない自分を、ジャッドくんが不思議そうに見ていることに気づき、大和桜のラベルからはじまり、2カ月近く前にテッカンから聞いたそのデザインとブラック・ニッカのつながりのこと、大高重治のこと、奥山儀八郎のことを長々と話してきかせた。注文を取る準備が整ったようなので、中煎りのブレンドを頼み、ついでに、ご主人に額装された版画について質問してみる。亡くなる数年前に、奥山儀八郎はこの店を訪れたのだと言う。版画に興味を示したことがいいきっかけになったのか、ご主人がコーヒーについてぽつりぽつりと語りはじめた。面白い話ばかりだった。もともと船乗りだったご主人がいちき串木野で店をはじめ、『パラゴン』のマスターと勉強会を開いていた時期もあったと聞くに及び、同じいちき串木野にある大和桜酒造のことがまた頭をよぎる。思わずコーヒーカップを持つオランダ人の版画に目をやった。ブラック・ニッカのラベルに描かれた髭の男に、似ていなくもないなという気がしてきた。(この項、しつこくさらに続く)
◎マリアッチ 鹿児島県鹿児島市武3-7-8
(2009年9月10日)
次回「酒に訊け。」